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母国語でない言葉で精神分析を受けること(2)

(1)の続きです。他に、3つ、思うところを述べたいと思います。

 

まず、人の言葉の使い方、言葉の意味は、人によって異なるものです。それで分析家は、分析を受けている人が使う言葉のひとつひとつが、その人にとってどういう意味なのかを、つねに知ろうとしているものです。例えば「男らしい」という言葉を使う時に、ある人は「リーダーシップがある」という意味で使っていましたが、またある人は「大雑把でがさつだ」という意味で使っていました。「女らしい」という言葉でも同じことで、ある人は「包容力がある」という意味で使っていましたが、またある人は「感情的である」という意味で使っていました。言葉にはあらかじめ定まった意味があるわけではなく、その人がどういう意味をその言葉に与えて用いているのかがつねに重要です。言語学者ソシュールは「言葉は差異の体系である」と言っていて、言葉は物の本質を担ったりあらかじめ存在する実体に名前をつけたものではないと言っていますが、この点に関して全く賛成です。ですからどんなに単純で初歩的な言葉であっても、分析家はつねにその人がどういう意味でその言葉を用いているのか出来る限り正確に捉えようと、注意深くあろうとしているものです。この意味においては分析家と分析を受ける人の言語や文化的背景が同じであれ違うのであれ、とどのつまり自明なものは何ひとつないので、解明が必要です。ですから分析家が分析を受ける人の言葉や文化的背景によく通じているかどうかは、転移が成立しているかどうかに比べれば二次的な問題だと私は思います。

 

それから二点目ですが、よく聞かれる意見かも知れませんが、フランス語で分析をする場合、自然と自分が何をどう考えたり感じたりしているかが、明らかになるところがあります。これは文法的な構造からしてフランス語では主語・述語・目的語などを明確にしなければ話せないからで、そのおかげで普段無意識にやっていることも、意識化できるところがあります。これは自分が何を望み何を考えているのか分からなくなっているような時に、自分の足元がぐらついているような寄る辺ない気持ちになっている時に、よい意味で威力を発揮し、そのような危機から抜け出す助けになることがあります。

 

最後にもうひとつ付け加えるなら、各自の人生にとって、それぞれ重要な言葉というものが存在します。例えばその語の元に、自身が表現されていると考えられる言葉であったり、その人の人生が、何らかの形で、その言葉の周りを巡って形成されているように考えられる場合にそのように言いあらわします。このような語のことを、ラカンは「主(あるじ)のシニフィアン Signifiant  maître」と呼んでいます。

このような語はひとつだけとは限らず、複数あることもあります。重要さの度合いもまちまちですが、精神分析を進めていくと、とりわけ重要な語の場合は、その語を巡って、その人の”幻想”だったり”家族小説(ファミリーロマンス)”、その他さまざまな話が密接に結びつけられているようなことがあります。あるいはこの語はハブ空港みたいなもので、その人にとってのひとつの重要拠点のように考えられるべきで、人生の中の様々な重要な出来事がこの語を通過したり、この語を巡って配置されるようになった・・とも言うことができるでしょう。人があたかもこの語に従属しているかのように(「人がある語・言葉に従属する」というのは謎めいている言い方ですが)人生を送っている・・というふうにも捉えることができるので、これらの語は「主(あるじ)のシニフィアン」と呼ばれます。この語についてはまた別のところで解説したいと思います。

 

このようにその人にとってかなり重要で、解明しなければならない語の場合は、語そのものの文字通りの意味よりも、その語を巡る連想から引き出されるいろいろな話や、この語が縮約した形で担っているさまざまな物事が重要になってきます。ですから精神分析では語そのものをうまく翻訳できるとか語学に堪能であるということよりも、そういう連想がたとえ流暢にではなくても自由に、忌憚なく語られることのほうが、はるかに大事であると、私には思えます。そしてそれを可能にするのはやはり転移が成立するかどうかであると、思います。

コラム

母国語でない言葉で精神分析を受けること (1)

フランス人と分析を長年してきたので、よく受ける質問があります。それは「日本語を母国語とする日本人であるあなたが、フランス語で精神分析を受けることに、意味はあるのでしょうか」というものです。私が大学生だった時「いつかフランス人分析家にラカン派の精神分析を受けたい」と言うと、ある教授がこう言いました。「なかなか難しいんじゃないか。あなたの無意識の内容を意識化する―これはひとつの『翻訳』みたいなものだ。その上で、この意識化されたものを、あなたはフランス語に直して分析家に語ることになるのだから、これは2回目の『翻訳』になる。そのような『翻訳』の『翻訳』に、意味があると思うか?」そのような精神分析が全くの無駄だとは言わないけれども、このような二度の「翻訳」のせいで、こぼれ落ちてしまうものが多いのではないかーという否定的な意見でした。

 

確かにそれも考えられるなと思い、率直に意見を言って下さったことにとても感謝しました。それでも結局は教授の意見とは反対にフランス語で分析をしてきて、とても良かったと思っているのですが、この問いはとても大事な問いだと今も考えています。外国語で精神分析をした様々な方の意見を聞いてみたいと思っていますが、さしあたって私がこの問いへの答えとして考えるのは、「転移」のことです。

 

精神分析が行われる、なされるにあたって一番必要な条件が何であるかと問われれば、結局、「転移」があるかどうか、ではないでしょうか。たとえばある日本人がフランス人と精神分析をしたいと考える場合、フランス語が堪能でなくてはならないとか、日本の文化に精通した人を分析家として選ぶべきであるとか、それらが何を置いても重要であるとは私は思いません。なにより一番大事なことは、そこに転移があるかどうか、です。転移があれば精神分析が行われる可能性があるけれども、転移がなければ精神分析は始まらない、ということです。

 

転移についてはフロイトや他の分析家の考えなどまた別のコラムで説明を試みたいと思いますので、ここではラカンの考えを紹介したいと思います。ラカンは分析家について「知を想定された主体」であると言っていて、これを転移の本質であるとしています。これは分析を受けている人が分析家に対して、「この分析家は、自分についての知を持っているに違いない」と想定する、というような意味です。自分に関することを、自分以上に分析家が知っているのではないかーと思うということです。

 

そうは言っても、自分の事は自分が一番よく知っていると思ったり、自分よりも自分のことを理解できる人がいるわけはない、もし自分のことを自分よりも知っていると主張する人がいるならそれは宗教のようなもので、洗脳に近い話だとも思えます。それは確かに正しいわけで、ラカンも、「分析家は分析主体(分析を受けている人)についての知を持っている」と言っているのではありません。そうではなくて、あくまで分析をやっている間、分析主体は自分についての知を持っているのは分析家であると「想定する」と言っているだけであり、結局のところはその知は分析主体のなかにあるのだと言いたいわけです。ラカンはソクラテスの産婆術にならって、産婆にあたるのが分析家であり、この人の助けを借りて、分析主体は子どもを生む―それまで知らなかった自分についての知(真理)を産み落とすーと説明したのです。例えばある症状に悩む人が精神分析を受けるとして、分析家の力を借りて、症状が意味するところを理解(真理としての知)し、症状から解放される―ということです。

 

別の言い方をすれば、分析家に会う時、「この人なら私のことを理解して悩みを解決してくれるだろう」とか「この人になら話してみたい」というのがなければ、分析主体の無意識が開いたり、自由連想がなされるということは、大変難しいと言えるでしょう。分析を始める時、なぜ今、ほかならぬこの時に、分析を始めるのかという問いは必ずなされるものですが、同じくらい「(他の誰かではなくて)この分析家に分析を受けたいと思うのか」という問いは大切で、たとえその時ははっきりしなくても何か答えがあるものだと思います。

そしてこの分析場面で働いている転移の力というのはとても強力で、分析作業がどのようなものになるかを決定する、大きな原因になり得ます。転移は分析作業を進める分析主体の側のモーターのようなものと言えるでしょう。そして分析家の側のモーターは、ラカンが「分析家の欲望」と呼ぶものと言えるでしょう。

 

とどのつまりは誰かがどれほど良い分析家だと考える人を紹介してくれたとしても、本人が転移を起こすということがないならば精神分析をするのは難しいと言えます。精神分析を母国語でやるかどうかや、分析家の言葉をどれほど習得できているかということよりも、そちらの方がはるかに大切なことであると思います。

以上が母国語でない言葉で分析を受けるということについて、一番初めに答えたい事柄です。 ((2)に続く)

 

 

 

コラム

切迫する不安 ピエールの症例(3)

ピエールの面接は7回しか行われていませんが、その治療的効果は疑いのないものと考えられます。以前のピエールは不安発作に悩み、また知的な面での制止と、抑うつの状態で行き詰っていました。半面、彼が唯一生き生きとできる場面は宗教活動の場面であり、それが彼にとって大事な社会的なつながり、人間関係を作っているものでした。この宗教面に関することとしては、その場が彼自身を支えていて、彼の理想の自分のイメージを支えていたと考えられます。しかしカトリックでは自殺を禁じており、ピエールの友人はまさにその自殺をしてしまったため、ピエールは彼の信じる神への信仰が想定する意味の限界に、置かれてしまったのでした。

 

それでは分析家はどのようにピエールの最初の不安・訴えを理解したのか、面接でどのようなことが起こったと考えられるのでしょうか。

 

福音書読解の再解釈

分析家はピエールの症例について、2つのポイントを指摘しています。

ひとつは福音書の読解の再解釈、もうひとつは友人に言われた言葉に関してのことです。両者は互いに関連しています。

 

放蕩息子のたとえ話は、3人の兄弟が生前に父の遺産を分配してもらうという内容の、たとえ話です。その話の中でピエールが問題にしているのは、長男が父のそばにとどまって暮らし親孝行していたにも関わらず、遺産分配の時にそのことが考慮されず報われていないと感じ、不満を言う点です(一般的にこの話は宗教的な父の愛の深さ=遺産で放蕩を尽くして戻ってきた三男のことを、喜んで迎え入れる寛大な父=を示しているものとも考えることができます)。

ピエールは6回目の面接で、今までとは別のやり方で、この部分を解釈することにしたと話すのでした。それはこの長男は、「父親への愛に囚われていたせいで、自分の人生を楽しむということを自分で自分に禁じていたのだ」という解釈です。これは彼にとって非常に大きな発見でした。この解釈を自分で見つけたおかげで、親元に住んでいた彼は、今までの人生とは決別して、自分の人生を選択する自由と、ひとりの女性を愛するという危険を冒す自由とを、手に入れることができたのでした。

 

“意味の外”との出会い

 

もう一つのポイントは、「君に同じこと(=自殺)が起こるなんてことは、あってはならないよ」という友人の言葉です。この言葉のせいで、ピエールは、自分の意に反して、手すりの上から自分が飛び降りてしまうのではないかという不安に陥っていました。

ピエールはもちろん死にたいわけではありませんでした。しかし発作的に自分がそのような行動を取ったらどうしようという不安に、絶えず襲われていたのです。なぜか。それはこの友人の言葉自体が、ある、“意味の外”(思い描いたり言語化することが不可能な、了解不可能であるような外部=この症例では”自殺”)との出会いを名付けているからだ、と分析家は考えます。この言葉は「~してはならない」という命令の形を取っていて、謎めいてもいますが、このような言葉はピエールに何らかの返答を強いてくるものであり、その返答がとりあえず”自殺行為”でもあり得るために、ピエールは不安に陥っていたのだと分析家は考えます。友達がなぜ自殺したのかは分からない、その意味を探しても無駄であると分かった瞬間から、ピエールはいわば友達の狂気の中に投げ込まれてしまったのでした。

しかし精神分析の場とはある特権的な場であり、この何気ない言葉の謎を、解釈によって解決することができる場であると分析家は考えます。「人生を楽しむことを自分に許可しないこと」・・このことこそまさに、実は自殺した友達が示したことではないだろうか。こう問うことが出来るようになるとピエールは、「~してはならない」という命令の彼方に自分を連れ出すことができ、不安から解放されることができたのだと、考えられるのです。

以前のピエールは福音書を頼りに、その教えを使って彼自身の問題を解こうと努めていました。しかし友達の自殺以降、彼の信じる宗教では堰き止めることのできなかった謎が生じ、宗教とは違う、精神分析という、べつの場・べつの装置を用いることで、彼は自分の生きる欲望との結びつきを創造することができました。それは彼がそれまで信じてきた宗教を否定することにつながったかと言うとそうではなくて、むしろピエールと宗教との関係をより豊かなものにしたかも知れないと思います。

 

この症例において切迫とは、避けられない命令のように彼に降りかかったものから、彼自身を分離させるような、ひとつの回答を求めるものだったと分析家は言います。人がどうしようもない、制御できないような不安に捉われ、このままいたらおかしくなってしまうのではないかというような切迫した状態になることがあります。そのような場合であっても、ピエールは薬には頼りたくないと言って、分析家との出会いを上手く使いながら、難局を切り抜けることができ、新しい人生を創造することができました。

 

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