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無意識の不気味さについて

 

精神分析家になるためには誰しもまずは精神分析を受けなければなりません。ところで私は精神分析を受け始めた頃、自分の話を真剣に聞いてもらえて嬉しく思ったり、色々な発見をしたり、なにか重要なことが分かった時に、実際に自分自身が変わるという経験をしました。ですから分析経験について、こんなによいものが世の中にあるのだ―というふうに感じることが多かったです。ちなみに分析を始めた頃にこのような体験をすることは比較的知られていて、(精神分析における)ハネムーン時期と呼ばれています。新婚の頃の、互いが互いのパートナー対して夢中になっているような、良いところしか見えない時期になぞらえ、そのように呼ばれています。

 

ただそれと同時に段々と、あまりに無意識が活発に動くようにも感じました。分析をする前とは違い、たくさんの夢を見たり、色々な思い出が次から次へと自然に浮かんでくるなどしていました。その上、それらは一見無意味な夢や思い出に思えても実はそうではなく、むしろ何らかの意味があったり、何らかの事柄に関連していて大真面目に取り上げるべきことである、ということが分かってきました。自分や周りのことに関してそれまでとは違った目で見ることになり、いろいろな発見が続きました。

 

しかしそうなると今度は、非常に自分が消耗し、分析家のうちに行って分析を続けていくことに疲労を覚えるようにもなりました。そのような時私が思っていたことは、無意識は不気味なものであるということでした(フロイトも「不気味なもの」という論文を書いています)。抑圧していたものが意識にかえってくること自体もそうなのですが、下らないと思うようなひとつの事柄が実は人生上の選択に影響を与えていたり、想起される事柄には何らかの連関があること、無意識にはでたらめなところがないような、整合性やロジックがある・・というようなところが、正直怖いと思いました。

 

そしてそのような時期に私はひとつの夢を見ました。「頭上に一羽の野鳥のような、大きい鳥が舞っていて、それが私の頭をつつく」。夢のなかで感じたのは怖さや不気味さでしたが、これはそのままその時点での分析作業のなかで感じていたことでした。あまりに無意識の開きが素早く生じて分析作業の展開が速くて戸惑ったことや、精神分析的経験のもつ、不気味なものに触れていくという側面とが、そのような感覚を生んだのだと思います。

 

しかし今考えてみても、精神分析経験から生じているこのような感覚自体は、受け入れるしかないような気がします。精神分析経験にはいろいろな時期がありいろいろな側面がありますが、そのなかのひとつとして、あり得ることですし、避けるべきでもないということです。

よくある質問

どれくらいの頻度で面接に通えばよいのでしょうか

相談の内容や事情等にもよりますが、カウンセリングの場合、一般的には毎週か、少なくても隔週で通われるのが良いと思います。

 

何らかの悩みや症状を抱えて相談にいらっしゃると思います。それに対して何らかの解決を見出そうとして面接でお話をしていきます。自身と人との関係を見つめ直したり、自身のあらゆることを考えていくことになります。そのような作業は一定のリズムで行われることが望ましいと思われます。そうすることで、面接に一定のテンションが保たれることにもなるでしょう。

 

習い事を例にだすと分かりやすいかも知れません。単純な比較はできませんが、例えばサッカーにはサッカーの練習があり、ピアノにはピアノの練習があると思います。これらはやはり週に何分の練習を何回するというような、ある一定のリズムで習うことで、上達していくのではないでしょうか。面接においてはご自身のこころを知っていく作業(練習)をするのだと、とりあえず言うことができます。あるいはご自身のこころを話すことで自身のこころのテキストを作り、そのテキストを読んでいく練習をするとも言ってよいかも知れません。それがサッカーやピアノの練習と違うのは(いや、同じなのかもしれませんが。人によるのでしょう)、自分を知っていく作業は面接室のみで行われるわけではないことで、面接室を出てからも、自然とそういう作業がご自身で始まるようになることが多い点です。

 

それとは反対に、ご自身の気分によって面接の頻度を上げたり下げたりするのは好ましくないと思われます。それには色々な理由がありますが、精神的に波があること自体が症状である場合があるというのが大きい理由のひとつです。また、サッカーやピアノの練習の場合、練習したくない時期が来るかもしれません。通うのが面倒くさくなったり、苦手な部分に取り掛からなければならなかったり、上達しなくていらいらしたり等、さまざまな理由があると思います。そのような時期は自分を知る作業でもやってくるものです。それでも解決したい、知りたいというような、最初の動機や目的を思い起こして、作業を粘り強くつづけていくことが大切です。そして最初の目的が達せられたと考えられる場合は、面接の頻度を下げて様子をみたり、終結となります。新たな目的(べつの悩み事の解決)に向けて面接を続けることもあるでしょう。

 

また、精神分析を受ける場合は、週に複数回いらっしゃることが望ましいです。

 

コラム

母国語でない言葉で精神分析を受けること(2)

(1)の続きです。他に、3つ、思うところを述べたいと思います。

 

まず、人の言葉の使い方、言葉の意味は、人によって異なるものです。それで分析家は、分析を受けている人が使う言葉のひとつひとつが、その人にとってどういう意味なのかを、つねに知ろうとしているものです。例えば「男らしい」という言葉を使う時に、ある人は「リーダーシップがある」という意味で使っていましたが、またある人は「大雑把でがさつだ」という意味で使っていました。「女らしい」という言葉でも同じことで、ある人は「包容力がある」という意味で使っていましたが、またある人は「感情的である」という意味で使っていました。言葉にはあらかじめ定まった意味があるわけではなく、その人がどういう意味をその言葉に与えて用いているのかがつねに重要です。言語学者ソシュールは「言葉は差異の体系である」と言っていて、言葉は物の本質を担ったりあらかじめ存在する実体に名前をつけたものではないと言っていますが、この点に関して全く賛成です。ですからどんなに単純で初歩的な言葉であっても、分析家はつねにその人がどういう意味でその言葉を用いているのか出来る限り正確に捉えようと、注意深くあろうとしているものです。この意味においては分析家と分析を受ける人の言語や文化的背景が同じであれ違うのであれ、とどのつまり自明なものは何ひとつないので、解明が必要です。ですから分析家が分析を受ける人の言葉や文化的背景によく通じているかどうかは、転移が成立しているかどうかに比べれば二次的な問題だと私は思います。

 

それから二点目ですが、よく聞かれる意見かも知れませんが、フランス語で分析をする場合、自然と自分が何をどう考えたり感じたりしているかが、明らかになるところがあります。これは文法的な構造からしてフランス語では主語・述語・目的語などを明確にしなければ話せないからで、そのおかげで普段無意識にやっていることも、意識化できるところがあります。これは自分が何を望み何を考えているのか分からなくなっているような時に、自分の足元がぐらついているような寄る辺ない気持ちになっている時に、よい意味で威力を発揮し、そのような危機から抜け出す助けになることがあります。

 

最後にもうひとつ付け加えるなら、各自の人生にとって、それぞれ重要な言葉というものが存在します。例えばその語の元に、自身が表現されていると考えられる言葉であったり、その人の人生が、何らかの形で、その言葉の周りを巡って形成されているように考えられる場合にそのように言いあらわします。このような語のことを、ラカンは「主(あるじ)のシニフィアン Signifiant  maître」と呼んでいます。

このような語はひとつだけとは限らず、複数あることもあります。重要さの度合いもまちまちですが、精神分析を進めていくと、とりわけ重要な語の場合は、その語を巡って、その人の”幻想”だったり”家族小説(ファミリーロマンス)”、その他さまざまな話が密接に結びつけられているようなことがあります。あるいはこの語はハブ空港みたいなもので、その人にとってのひとつの重要拠点のように考えられるべきで、人生の中の様々な重要な出来事がこの語を通過したり、この語を巡って配置されるようになった・・とも言うことができるでしょう。人があたかもこの語に従属しているかのように(「人がある語・言葉に従属する」というのは謎めいている言い方ですが)人生を送っている・・というふうにも捉えることができるので、これらの語は「主(あるじ)のシニフィアン」と呼ばれます。この語についてはまた別のところで解説したいと思います。

 

このようにその人にとってかなり重要で、解明しなければならない語の場合は、語そのものの文字通りの意味よりも、その語を巡る連想から引き出されるいろいろな話や、この語が縮約した形で担っているさまざまな物事が重要になってきます。ですから精神分析では語そのものをうまく翻訳できるとか語学に堪能であるということよりも、そういう連想がたとえ流暢にではなくても自由に、忌憚なく語られることのほうが、はるかに大事であると、私には思えます。そしてそれを可能にするのはやはり転移が成立するかどうかであると、思います。

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