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ピエール・スクリャビン 短時間セッションに関する論文

2022/05/20

ピエール・スクリャビン(Pierre Skriabine)氏はパリで活躍したロシア系フランス人で、ラカン派の精神分析家です。ラカンは精力的に数多くの分析家を育てたと言われていますが、スクリャビンもそのうちの一人です。

彼は2004年、雑誌La Cause Freudienne56号に、「エビデンスか問いか?」(Évidences ou questions ?)という短かい論文を書いていますので、それを訳して載せたいと思います。

ここで扱われているのは、ラカン派の精神分析がなぜ短時間セッションであるべきと考えられるか、という問いです。

”短時間セッション”、と言っても、それが具体的に何分のセッションを指すのかは一概には言えません。これは分析家によって異なりますし、分析主体(分析を受ける人)によっても異なり、またセッションごとに変わるものです。ですので正確に言えば、これは”時間変動制のセッション”のことを指しています。セッションの時間に関して、あらかじめ何分の面接でいくらの料金が発生する・・と考えるのがスタンダードな考え方ですが、ラカンはそのようには考えませんでした。これには精神分析の扱うのが”無意識”であるということが、深く関わっています。

ちなみに、スクリャビンはこの論文のなかで、ラカンの1回のセッションは極めて短時間であり、例えば15分のセッションだった時彼自身は永遠の長さに感じたと言っています。ということは、スクリャビンとラカンの間では、15分のセッションでも長い方だったということになるでしょう。そしてそのようなセッションを、週に3回~4回、重ねていたと思われます。とは言え、彼はそのラカンの行っていた極めて短時間のセッションをスタンダードと考えるべきだと言っているのでもありません。その長さ・短さがどんなであれ、セッションの時間についてスタンダードを設定すること自体が、本来できない話である・・というのが、彼の言いたいことと思われます。

スクリャビンが分析のセッションは短時間であるべきと考える根拠が、この論文では三つあげられています。また短時間セッションにおける、彼の分析主体(分析を受けている人)のエピソードも、短いですがいくつか紹介されています。また改めてこの論文にまつわる解説を載せたいと思いますが、「パートタイムの分析主体は存在しない」(分析を始めると、セッションの時間だけではなく、それ以外の日常生活の時間でもいつも分析について考えるようになること)と書くなど、ラカン派分析のセッションの雰囲気が少し伝わってくるような面白いテキストです。

※ 出典は上記に記してあります。試訳であることを承知の上、ご利用下さい。

 

ピエール・スクリャビン論文

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無意識の不気味さについて

 

精神分析家になるためには誰しもまずは精神分析を受けなければなりません。ところで私は精神分析を受け始めた頃、自分の話を真剣に聞いてもらえて嬉しく思ったり、色々な発見をしたり、なにか重要なことが分かった時に、実際に自分自身が変わるという経験をしました。ですから分析経験について、こんなによいものが世の中にあるのだ―というふうに感じることが多かったです。ちなみに分析を始めた頃にこのような体験をすることは比較的知られていて、(精神分析における)ハネムーン時期と呼ばれています。新婚の頃の、互いが互いのパートナー対して夢中になっているような、良いところしか見えない時期になぞらえ、そのように呼ばれています。

 

ただそれと同時に段々と、あまりに無意識が活発に動くようにも感じました。分析をする前とは違い、たくさんの夢を見たり、色々な思い出が次から次へと自然に浮かんでくるなどしていました。その上、それらは一見無意味な夢や思い出に思えても実はそうではなく、むしろ何らかの意味があったり、何らかの事柄に関連していて大真面目に取り上げるべきことである、ということが分かってきました。自分や周りのことに関してそれまでとは違った目で見ることになり、いろいろな発見が続きました。

 

しかしそうなると今度は、非常に自分が消耗し、分析家のうちに行って分析を続けていくことに疲労を覚えるようにもなりました。そのような時私が思っていたことは、無意識は不気味なものであるということでした(フロイトも「不気味なもの」という論文を書いています)。抑圧していたものが意識にかえってくること自体もそうなのですが、下らないと思うようなひとつの事柄が実は人生上の選択に影響を与えていたり、想起される事柄には何らかの連関があること、無意識にはでたらめなところがないような、整合性やロジックがある・・というようなところが、正直怖いと思いました。

 

そしてそのような時期に私はひとつの夢を見ました。「頭上に一羽の野鳥のような、大きい鳥が舞っていて、それが私の頭をつつく」。夢のなかで感じたのは怖さや不気味さでしたが、これはそのままその時点での分析作業のなかで感じていたことでした。あまりに無意識の開きが素早く生じて分析作業の展開が速くて戸惑ったことや、精神分析的経験のもつ、不気味なものに触れていくという側面とが、そのような感覚を生んだのだと思います。

 

しかし今考えてみても、精神分析経験から生じているこのような感覚自体は、受け入れるしかないような気がします。精神分析経験にはいろいろな時期がありいろいろな側面がありますが、そのなかのひとつとして、あり得ることですし、避けるべきでもないということです。

よくある質問

どれくらいの頻度で面接に通えばよいのでしょうか

相談の内容や事情等にもよりますが、カウンセリングの場合、一般的には毎週か、少なくても隔週で通われるのが良いと思います。

 

何らかの悩みや症状を抱えて相談にいらっしゃると思います。それに対して何らかの解決を見出そうとして面接でお話をしていきます。自身と人との関係を見つめ直したり、自身のあらゆることを考えていくことになります。そのような作業は一定のリズムで行われることが望ましいと思われます。そうすることで、面接に一定のテンションが保たれることにもなるでしょう。

 

習い事を例にだすと分かりやすいかも知れません。単純な比較はできませんが、例えばサッカーにはサッカーの練習があり、ピアノにはピアノの練習があると思います。これらはやはり週に何分の練習を何回するというような、ある一定のリズムで習うことで、上達していくのではないでしょうか。面接においてはご自身のこころを知っていく作業(練習)をするのだと、とりあえず言うことができます。あるいはご自身のこころを話すことで自身のこころのテキストを作り、そのテキストを読んでいく練習をするとも言ってよいかも知れません。それがサッカーやピアノの練習と違うのは(いや、同じなのかもしれませんが。人によるのでしょう)、自分を知っていく作業は面接室のみで行われるわけではないことで、面接室を出てからも、自然とそういう作業がご自身で始まるようになることが多い点です。

 

それとは反対に、ご自身の気分によって面接の頻度を上げたり下げたりするのは好ましくないと思われます。それには色々な理由がありますが、精神的に波があること自体が症状である場合があるというのが大きい理由のひとつです。また、サッカーやピアノの練習の場合、練習したくない時期が来るかもしれません。通うのが面倒くさくなったり、苦手な部分に取り掛からなければならなかったり、上達しなくていらいらしたり等、さまざまな理由があると思います。そのような時期は自分を知る作業でもやってくるものです。それでも解決したい、知りたいというような、最初の動機や目的を思い起こして、作業を粘り強くつづけていくことが大切です。そして最初の目的が達せられたと考えられる場合は、面接の頻度を下げて様子をみたり、終結となります。新たな目的(べつの悩み事の解決)に向けて面接を続けることもあるでしょう。

 

また、精神分析を受ける場合は、週に複数回いらっしゃることが望ましいです。

 

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