精神医学と精神分析とはどう違うのでしょうか(2)
メンタルクリニックや心療内科、精神科に行くと、患者さんを精神科医が診察し、精神医学のマニュアルに基づいて診断を下し、薬が処方されます。診断名をもらうことで、自分だけが悩んでいるのではないのだと思って安心し、場合によってはそれだけでもずいぶんこころが軽くなることがあります。またそれとは反対に、診断がつくことによってショックを受けたり、知らないほうがよかったと感じる場合もあるでしょう。
精神医学のマニュアルは、それまでの莫大な数の患者さんのデータを分類することにより作られています。診断は、その診断を受けた人たちに共通する症状の特徴を拾い上げて名付けたものと考えられます。例えば鬱病の場合は、気持ちの落ち込みや罪責感情、食欲不振、疲労感といったものが、共通する特徴となります。そしてこれらの特徴を適切に聞き出して、ふさわしい薬が処方するというかたちで治療が行われます。ですのでこう言ってよければ、精神医学の治療とは患者さんたちに「共通するもの」、「一般的なもの」を見いだすという方向性をもっています。
これに対して精神分析(ラカン派)の場合、分析主体(分析を受ける主体=医療場面では患者にあたるもの)の特異性と言われるもの、その人に固有のかけがえのないものに向かって分析が進む、ということができます。分析に来るということは、その人に何か目的があってくるわけですから(たとえば、自分を知りたいとか、悩み・症状を解決したいとか)、本人が意識しようがしまいが、どうしてもその目的となっているものの周りをめぐったお話をするようになります。分析では自由連想が原則となりますが、自由連想とは結局のところそのようなものです。「自由」が付いているからと言って、必ずしも話があちこちに行くということではありません。むしろ自由に話しているつもりでも、主体の話はある意味、連想でつながっているということです。そしてその連想の意味するところを分析家とともに読むことを進めていくことにより、悩みや症状の原因となっているものが特定できたり、解決します。そして究極的には分析主体にまったく固有のもの(特異性とか、かけがえのないものと呼んでいます)に到達します。ここで言うその人に固有のものとは、精神分析によってそう判断されるもののことであって、一般的に考えられているような、たとえばその人の「個性」や「特徴」とよべるものとも違います。また「究極的には」というのは、そこまで分析を続ける人は少ないからです。むしろそのような方向性をもつ分析の過程で、悩みや症状が解決したり軽減することがほとんどです。
このように精神医学と精神分析は治療の方向性がちがう、と考えることができます。前者は一般へ向かい、後者は特異性に向かうという言い方ができます。
ただし両者の方向性が違うことは互いが独立していることを意味しているのであって、精神分析が精神医学やその診断を無視するということではありません。メンタルクリニックや心療内科、精神科にすでにおかかりの方が分析をする場合、診断について知ったうえで始めることが多く、相談室ではほとんどの場合、紹介状をもらってきてくださるようお願いしています。